みーのブログ

ただの独り言とか、歌詞とか。https://nana-music.com/users/6121808

ぶっちゃけてみる。

埼玉県吉川市で生まれ

小学一年生で2度の引越しをする。

吉川→川口→三郷

吉川で仲良かった友達は普通に考えて

川口にも、三郷にもいない。

分かってた。でも分かりたくなかった。

小学一年生の2学期始めから三郷にいた。

川口でも三郷でも1年生の時いじめられて

三郷の場合は2年の時も。

塞ぎ込んだ。

その時から私の精神は

おかしかったのだろうと

今思えばそう思う。

実の父親に冷蔵庫の前に

座らされてバスタオルかけられて

血が飛び散らないようにとか言われて

金属バットで

殴られる寸前まで言ったこともある。

ただテレビのチャンネル

変えただけでそうなった。

あと、子供だとあたしにだけは殴る蹴る

ポニーテールしてる頭を引っ張って

円形脱毛症になったり、

そのせいで学校でいじめられたり、

言葉の暴力もすごくて、

ストレスのピークに

達した小学5年生か6年の時

その当時名前は知らなかったけど、

今で言うリストカットでストレスを

発散していた。

でもそれでも耐えられず

お母さんに直談判した。離婚してくれと。

三郷にいる間に団地に10回以上引っ越した。

実の父親の所に4回は戻った。

 

中学はあまりその小学校から

行かなそうなところを選んだ。

 

そしたらいじめられた。

 

しかも吹奏楽部の部活の先輩に

腕を傷つけてることがバレて

そこでその名前を知る。

リストカットだと。

 

その先輩は私にこういった。

リスカするなら縦にやった方がいいよ。

血がいっぱい出て死ねる可能性高まるよ。

そう言われた。

 

泣きたかった。

メンヘラだと思われてることが悔しかった。

だけど切ってる事実は変わらなくて

もどかしかった。

 

あの時辞めてればこんなに傷残らなかったと

今となっては後悔してるけど

そんなことできるほど心の余裕はなくて。

馬鹿だった。

 

中3の時進学するか就職するか選択を迫られた。

高校行かないつもりだったけど

行きたい高校はあって

関東国際高校の韓国語コース行きたかった。

でも反対されてて私立だから、

そんなお金ないってショックで、

しばらく立ち直れなかった。

でも卒業した高校は当時の友達が

行くから行くことに決めた。

受験が始まる3ヶ月前に決めた。

みんな大慌て。

 

今ここで謝ります。

 

いきなり決めてごめんなさい🙏

 

 

高校受験当日お弁当忘れ

その友達にクッキー1個だけ貰ってしのいだ。

 

受験発表は、一人で行った。

落ちてると思ったのに受かってた。

 

笑った

 

とりあえず安心かと思ってた。

その友達も受かってたから。

入学してクラス離れて

上辺だけど友達もできた。

 

だけど急に中学からの友達1年の10月にやめた。

そして上辺だけど

仲の良かった友達クラスは違ったんだけど

その子担任と揉めて

学校来なくなって単位足りなくなって

1年の最後に中退した。

 

またふさぎこんだ。

どうでも良くなって高校やめたかった。

 

でもお母さんが辞めさせてくれなかった。

 

1年の時から大好きな女の先生が居て

ずっと担任になってー!って言い続けたら

3年の時担任になってくれた。

 

 

嬉しすぎて飛び跳ねたよね。

高三の時だけは楽しくて楽しくて

この時間が終わらなければいいのにって思った。

今でも仲良くしてくれてる友達もここで密に

なって仲良くなって私は嬉しい。

 

そこでまた試練が訪れる。

進路。

 

心理にするか

ブライダルだけど、

第二外国語で韓国語が取れるとこにするか

 

悩んでブライダルにした。

 

AO入試受けた2日後自転車事故起こして

示談金と医療費支払ったら貯金ゼロになった。

裁判とかにはならなくてよかった……

 

そんな中受験は合格。

あのクラスの中で一番最初に進路が決まった。

 

入学金を実父に教育ローンで払ってもらい

働き始めたら私がお金を渡す方式で。

すごい嫌な顔されたの覚えてる。

 

晴れて専門学生になった。2016年4月

JCFL 国際ブライダル科

ブライダルビューティー専攻

 

お金がかかりすぎて専門と派遣とバイト

三重苦

専門の課題はいつもバイト帰ってきてから

12時から3時まで 2時間3時間寝て起きて

高田馬場へ向かう。

 

リスカの跡のせいでいじめられ

グループワーク地獄だった。

 

ご飯も一人で食べてて

いつもEnglish teacherが

喫煙所から見守ってくれていた

そこから話しかけてくれてた英語で。

やさしかったな、名前忘れたけど。

 

英語はあまり得意ではなかったが

それでも国際人になりたくて

1人前になりたくて、早く大人になりたくて

なれない英語の授業、基礎教養特に数学苦手で

ことわざとかもビジネスも大変で

一日の時間が足りなかった。

それでも必死に食らいついた。

 

模擬挙式がブライダル科は

あってそこでコテンパンにいじめを受け、

花嫁は泣きあたしのせいにされ

それでも食らいついてた。

 

でもお金が足りないし

お母さんに言ってもこれ以上は無理だと。

 

2年次の学費も払えそうにないし、

もう食らいつく必死さも疲弊して

私は辞めることを決意した。

 

1年の夏休み前にやめた。

 

疲れてしまった。

 

ほんとに、これでよかったのかはわからない。

後悔してるから。

今でもブライダルやれるならやりたいよ、

でも今杖ついてる人間が出来るわけないんだよ。

 

高校3年の8月から

卒業間近まで

ブライダルサービスの

バイトしてたくらいなんだから

往復1400円なのに片道の700円しか出なくても

やってたんだから好きなんだよ。

 

なんて話は置いといて。

 

専門やめたあたりからやる気起きなかったり

体に不調も離人感も出てた。

 

だけどあたしには専門の支払いがあるから

奨学金と実父に返さなきゃ行けないお金

だから働かなきゃ行けなかった。

 

バイトもやめて派遣の長期雇用に入った。

慈恵本院に併設されてる検診センターに。

仕事に評価はついた。

でも体の不調はあった。

 

朝は早い。

家を5時に出てチャリで15分先の駅を目指す。

乗り換え待ちの

新松戸で、オロナミンCを買い飲んでから

電車に乗る。

御成門に6時45分前後

身支度が出来たらパソコンを立ち上げて

諸々の準備をするこれは下っ端の宿命だから

1ヶ月半とりあえず必死に働いたけど、

不調が酷すぎてダメで

慈恵本院の精神科にかかった。

自律神経失調症だと言われた。

 

薬飲んで仕事に行こうと思ったら

新松戸のホームでぶっ倒れて

救急車の1歩手前だった。

 

初めて仕事に休みの電話を入れた。

 

そこから仕事に行けなくなって

そしたらパニック障害だと言われた。

そこからは覚えてない。

 

仕事はやめた。

とりあえず遠くて通えそうにないから

慈恵柏に紹介状書いてもらって

そこに4年くらい?かよって、

主治医の異動についてって。って感じ。

 

その間に母親は自己破産&再婚。

 

義父は次女と三女が嫌いだった。

 

三女は高校卒業後すぐ家からいなくなった。

専門行くために貯めてたお金を使い

都内に逃げたのだ。

 

住所は私も妹も誰も知らないが

末っ子の四女は

たまに会っているようだ。

 

次女は看護の専門卒業し、2ヶ月か3ヶ月後に

彼氏と同棲するからと消えていった。

 

その後義父と二人きりになる時間が増えたのだ。

 

義父が酔っ払ってる時に性的なことをされ

逃げた私。

 

これを口外したら家庭崩壊だと脅され

最終的に母に話をして別居という形になった。

 

まだ母と義父は離婚していないらしい。

 

なぜなら離婚するなら離縁して

前の名字に戻れと言われたからだそうだ。

 

私は前の名字が嫌いだ。

 

だからなのかもしれない。

 

親不孝者な私を許してください。

 

 

訳分からん私の人生。

 

いつか幸せになりたい。